2008年5月1日木曜日

考えるワタシ - その果ては

「コギト・エルゴ・スム」と書いたデカルトは、「心身2元論」の親と言われる。しかし、その2000年前にソクラテスは既に、人間機械論的な会話を死を前に弟子としている。それはよいとして、近代以前の世界像では、自然とは霊的なものを含むアニミズム的世界だったが、ガリレオ等の探求で自然界は計測可能な科学の世界となり、心的・霊的なものは追いやられ、「心と物」の二つの世界となった。やがて、それは、「心」の世界まで入り込み、心までも科学の対象となり、今は「心の計算機理論」、つまり、身体も心も「機械」であり、「ココロは、あとづけの妄想・錯覚に過ぎない」と言われるにいたった。ニーチェはそこまで洞察したかは知らないが、「神は死に、真理はなく、あるのはニヒリズムだけだ」と悲観したし、フクヤマは「歴史は終った」とも書いた。ここまで考えてくると、世界、人生と言う物は、「ただそこに存在・継続する」というだけのもので、哲学などというものはない。ヒトの根底原理は、「動物的欲望と折り合い(約束事)」であり、それを少しだけ気をきかして言えば、「より良く生きる」と言うしかないのか。

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