2007年10月5日金曜日

京都へ - 早起き

午後から京都で用事があるので、早起きだ。海外とのやり取りはメールだから、何時でもできるのだが、NYとはほぼ12時間時差だから、こういう早起きした時は、まだあちらでオフィスに居る人もいて、電話で話せる。逆にあちらの朝の出社を待っていると、こちらが夜が遅くなるから、結構骨だ。夜の会食などで、ご酒が入った時などは、「Did you drink?」なんて言われてしまったこともあるし、その逆に、こちらが言った事もある。オフィス以外、例えば自宅とかへかけるときはもう少し、時間に余裕があるが、電話で話すような事はたいていは、仕事の話が多いから、あまり、ご自宅にはかけたくない。そういっても、20年もいたから、昔は結構、プライベートの空間に踏みこんだ事もある。「公と私」の空間なんて、課題もそんな時に考え始めたのかもしれない。さて、京都便りは、明日帰京(どっちも「京」だが)してからだな。

2007年10月4日木曜日

信頼の解き放ち理論 - 放浪旅

北方謙三の三国志を読んでいるが、これは昨年読んだ吉川英治の三国志とはかなり違う。キャラクターも、筋立てもそうだが、なんといっても、吉川は主人公が、劉備、関羽、張飛だが、北方は、どういうのだろうか、「三国」それぞれが、「主」のような、もっと言えば、「人物」がそれぞれ、主人公のような建て付けだ。最初の数冊は、それが判らずと惑ったが、わかって(ホントはどうだかしらない)しまえば、そう読める。確かに、三国どころか、戦国混乱時代だから、多くの英雄と志が跋扈し、切磋琢磨したのだろう。そのように読んでいて、山岸俊夫の「信頼の構造」を思い出した。つまり、世の中というものは、どれが正しくて、どれが違うという事ではなく、開放されていて、他者一般とのベンチマークを通して、自分(達)の立ち位置、価値を知る。それがない、「閉鎖系」では、「信頼する」というチカラ自体が退化して、コストも上がり、破局を迎えるというものだ。という事で、武蔵のように、武者修行で放浪し、自分より強いサムライとベンチマークする。それが、人の人生そのものという事か。

2007年10月3日水曜日

サムライ・フライ? - 満足度

値段はもちろん違うだろうが、マックのハンバーガーやフライの大きさは世界中で同じなのだろうか。というのは、先日都内某所の居酒屋で、「フライドポテト」を頼んだのだが、これが細身で、量もポッチリ、これで500円だ。最近はNYに行っても、レストランでガッツリ食べるより、バーカウンターで、ビール・ワインを飲みながら、チョイト何かをつまむ。お気に入りは、もちろんジョリアンのマッスルなんだが、これにもサイドで、フレンチフライが山ほど付いてくる。2週間前のジャージーシティーのパブでは、今好きなビール、ステラ・アルトアにシザースサラダとフライを頼んだ。このフライは、$3.95なんだが、太いし、揚げたで、量は日本の居酒屋の6倍以上あった。こういうものを比較する事に意味はないと思うが、土地土地での、コストパフォーマンスを考えながら生活するのも結構面白い。この1週間は、風邪でグズグズしていて、ビールも無しで情けない。関係ないが、イラク戦争開戦時に米仏関係がこじれて、その時は、「フレンチ・フライ」を「リバティー・フライ」に言い換えたなんて事もあったな。

2007年10月2日火曜日

「である国」と「する国」 - 親のかたき

最近の日本は、「子のかたき」のような事案が多い。それはともかく、「幕藩体制は親のかたき」と言ったのは、福澤諭吉、「『である事』と『する事』」と書いたのは丸山真男だ。二人は、「一生で二世を生きる」とも言っている。「である社会」と「『する社会』を目指そうとした社会」だ。昨日の所信表明を仔細に聞いたわけではないが、「この国」は今どちらへ向かっているのだろうか。「公的空間」の議論なく、成立した、たおやかな「国民国家」、JAPANは、岐路といわれて久しい。「である」という、フレーム(構造)があれば、その上でやればよいという「安心社会」が形成されるが、「する」というダイナミズム(機能)にすると、常にベンチマークを繰り返す、厳しいが効率的な社会となる、という考えがある。後者の代表はアメリカであり、前者には、ある期間の日本も入る。世論に迎合すれば衆愚政治もあり、やがて崩壊する事もある。グラックス等のローマ共和制を手本にした、理念の共和国、アメリカは、作られた実験国家だ。という事は、国とは「つくる」ものだとも言える。だから、西郷は「戦がたりもさん」と言ったのかも知れない。

2007年10月1日月曜日

現象学的めざめ - グルーミー

秋の長雨になったのだろうか、今朝もまだポツポツだ。こういう朝は、暗く静かだから、目が覚めにくい。ちょと早いが雪の朝など、静かなので、必ず寝過ごす。しかし、時差無し生活となると、朝時間になれば、ある程度で、「脳?」は活動を始める。「夢」の世界から、ちょっとした「音」や「光」に反応が始まり、「海馬」の「短期記憶領域」とのやり取りで、「自己の同一性」を取り戻すようだ。一度治ったかに見えた風邪も、甘く見たせえいか、しっかりとぶり返したようで、今朝の目覚めは、ゆっくりと、「この」認識、確信プロセスをたどって、現実認識界が到来(引き戻され?)した。クソ暑かった夏も、終ってしまえば、いつの事やら気がつけば、しっかりと秋の到来だ。しかも、秋晴れでははく、ドンヨリの曇り空。そういえば、英語には状況を表現する言葉が多いような気がする。こういう日は、多分「グルーミー」だし、もう少し寒くなれば「ヘイジー」だろうか。そういえば、アメリカで医者に行くといつも苦労したのが、痛みの表現だ。「ちくちく」とか、「刺すように」とか、「どういやいいのだ、まったく」と、具合が悪い中、思った。月曜日は、やっぱ、「ブルー」だ。

2007年9月30日日曜日

バーバー - チクチク

「必要あるのか?」と聞かれそうだが、私でも散髪には行く。NYに住んでいたころは、NYでも散髪に行っていた訳だが、いろいろとあった。初めは、アパートの近所の「いわゆる」街の散髪屋(サインは同じ、例の青赤白の縞模様)のドアを、エイヤと開けたのだが、「How do you like?」というような事を、爺さんに聞かれて、「Make it short,please」と言ったのだが、なんとなく通じた。「俺は、横須賀いた時、日本人の頭を刈った事があるから、任せろ」なんて事を言ったような気がして、不安がよぎったが、終わってめがねをかけるとびっくり、丸刈りにされていた。その時の日本人てのは、どんな奴だったのか、と思ったが、もう遅かった。どうでもよいが、それ以来、マラソンもしていたので、(どうせ薄くなったのだからと)髪は短くする事にした。ところで、アメリカの散髪屋は、洗髪をしない。だから、切った髪の毛が、首あたりでチクチクする。なので、仕事途中などでは行く気がしない。休日か、仕事帰りによって、帰宅してシャワーとなるわけだ。ところで、日本の散髪は、QBのような価格破壊が出てきて、昔からの「街の」散髪屋は苦しいのではないか。しかも、息子たちは散髪屋でなく、なんだか、おしゃれな店に行く。昨日のゴルフは午前中降られたが、午後は晴れた。