2008年1月12日土曜日

雨の西麻布 - グダグダ

昨晩は、カウンセラーの新年会。当たり前だが、カウンセラーだって「ヒト」だ。たまには、ガスを抜く事も大事だし、スーパービジョンの先生も、ご苦労様だ。さて、ある先生。「今年から、新入りの職場は大変だよ」。「?」と私。「『ゆとり第一世代』の就職が始まるんだよ」と答。一夜明け、調べてみた。、平成元年の学習指導要綱改正の施行が、1992年。その時の小学1年生が、今年就職年齢だ。曰く、「ゆとり」で育ったこの世代は、社会の「荒波」に耐えうる訓練や指導を受けていない。そうだな。10年くらい前に聞いた話だが、小学校の運動会で、横に手をつないでゴールするという。なんじゃそれはと、驚いた。こういう、おかしな価値観の中で育った子等だ。関係ないが、最近の新入社員には、「挨拶」もろくにできないのが多いらしい。わが子等を「高い」棚に上げて書くのだが、こりゃ受け入れる企業だって大変だろう。現場の上司も可愛そうだ。考えただけで、頭が下がる。若年社員の転職が多い。これもそれか。うーん。送り出す大学側で、なんらかの「人間教育」をするべきなんだろうが、そんな事は期待できそうもない。眠いが、ちょっと考えてみよう。

2008年1月11日金曜日

論理と感性 - トップの情景

リーダー論などを読んだ事はない。しかし突如、今までに垣間見た「トップとの情景」が脳裏(「裏」とはどこか?ーどうでもいいが)に浮かんだ。日本人、非日本人。もちろん限られた範囲は承知のステレオタイプ込み。欧米は、大は「Noble」、小は「Spilits」という感じ。日本はどうだ。大は「Arrogant」、小は「Ressentiment」と書くと、あまりに無茶か。それはそれとして、「この人は」と思った何人かの日本人トップは、同じような事を言っていた。それは、「普遍性」と言う事だだ。「どんな事を価値においているか?」という、私の愚問に対し、「普遍的な経営とか態度」とかをあげられた。もちろん、知性、感性は前提だが、「グローバルな時間と存在の視界」で物事を考える人は、「普遍性」に行き着くのだな、と感じたものだ。極論だが、自分の「感性」が「(正当な)普遍性」になってしまうような、カリスマが、至極のリーダーなのかもしれない。カエサルみたいに。ところで、3男は、今日イリノイにカエリサル。

2008年1月10日木曜日

Lost in Transition - 力への意思

世界観。NY居住をやめて1年以上がたち、ライフスタイルはかなり変わった。思考はというと、やはり「視界」は変わってきたといわざるを得ない。読む本もそうか。自然と「日本」もの手が動く。昨日も日本通史を買い、飛鳥から鎌倉あたりまでなぞった。こうしてみると、日本はかなりの事物が、連続して残っている。歴史は勝者のもので、他世界では、ジェノサイドとか、焚書とか、偽装も多そうだ。それはそうと、とにかく「歴史」は著者の耳目・思想・世界観をとおして記されている事が多い。新聞記者などは、ストレートに事実を書く事が要求されると思うが、それでも「現象」を了解するのは、記者の脳だ。だから、自分サイドに、知識と教養、そして世界観が必要なのだ。「世界」はどういう場か。1.自分で認識・了解できる場。2.伝聞で了解できる場。3.物語として存在している場。ま、ダイタイこの3種類だ。日本に戻り、一番変わって来たのは、この「世界観態度」かもしれない。常に「移動(Move)し」、常に「外(Benchmark)から」、日本人として、「世界」を考えていた態度が、日々薄れてゆくのが、実感としてわかる。いかん。「何か」を取り戻さねばならん。

2008年1月9日水曜日

Mobility - 西洋思想の原点

子供時代。自転車を買ってもらって、行動範囲が飛躍的に拡大した事を覚えている。それまでの、学校、公園などの徒歩限界線を越えて、電車3-4駅まで拡大した。隣接学校区まで行けるようになり、他地区の人々の様子も見れた。「ああ、同じ子供だ」と思ったか、「ちょっと、違うな」と思ったかは記憶していない。しかし、人としての「ベンチマーク」はここらあたりから始まったと言える。さて、しばらくぶりに、長年かけて作成した、「世界思想史年表」を開いて見たのだが、「西欧哲学の始まり」は、正にこの「ベンチマーク」から起こった。つまり、都市国家間、諸国間の「往来増加」で多様な世界観が「認識」され、その原理、了解性の必要性がでてきてからだ。人の脳は開放系である限り、よりよく活動ができる。開放系とは、他者をペンチマークする事だ。だから、ベンチマークが人の思想原理であり、その基礎が移動性(Mobility)にあるのだと思う。しかし、他者に接触しても、その「他者性」を「了解」「共感」できなければ、ベンチマークにはならない。目と目だけでは、貴女と私は分かり合えないのだ。

2008年1月8日火曜日

No 研究 - Odds and Ends

仔細はしらないが、「これ以上の脳研究に反対する日本人がかなりたくさんいる」と、ある新聞にある。なんでだろうか。「脳無し」のなせるわざか。いや、これは「能無し」が正しい。ピンカーズも「進化心理学」を書くにあたり、かなりの「反対派」への配慮をしている。もっと言えば、デカルトだって、ガリレオ裁判を見て、書きかけの「大宇宙論(だったか?)」をしまいこんだらしい。アメリカみたいに、80%の国民が神を信じ、60%がキリスト教という国なら、進化論やら、心研究にチャチャを入れられるのは判るが、無宗教(という宗教)を標榜する日本人が、何を「根拠」に反対するのか。不思議だ。ここに、「不思議の国、ニッポン」の謎解きの鍵があるかもしれない。なんて、考えるが、別に暇だからというわけではない。多分、私的、身体的な古層を基礎に持つ日本人思想が、こういう身体性の解明に対し、「えも知れぬ不安感」を持つのではないか。あれだな、「祠の中をみたら石ころだった」ってやつだ。その石ころを投げたのは、竜馬だったか、諭吉だったか。忘れた。

2008年1月7日月曜日

The Audacity of Hope - 人の役に立つ人生

「バラク・オバマ」。ここまできたら、知りたくなったので、週末で読んだ。タイトルは、彼の通う教会の牧師の言葉で、「大胆不敵な希望」が訳。これを彼は、「アメリカの精神で最上のもの」と言う。「大胆さ」は、「分裂した国家に一体感を回復する努力」。「不適さ」は、「不遇な子供時代を受容し、自己の運命を切り開く運命的力と、その運命自体の責任を信じる」、とある。まるで、ハイデガーの「あるべき姿」だ。憲法学者、市民権法弁護士。アメリカ建国精神に立ち戻って、現在の「Great Divide」社会を「よりよい方向へ導こう」という志を述べている。どこかの国の「トップになりたい人達」が、時々出す「おかしな」本とは、内容の「格」が違う。「共感(エンパシー)という価値観」の重要性について、一章が割かれており、昨年聞いた星野氏の話とも符合する。「エンパシー」は、今年、自分のキーワードになるかもしれない。最後に、フランクリンの言葉を引用している。「あの男は財をなして死んだと言われるより、人の役にたつ人生を生きたと言われたい」と。