2008年5月2日金曜日

毎日が、、、 - 天気はよし!

城山三郎が「毎日が日曜日」を書いたのは1976年。丁度自分は社会人2年目だった。さて今週、日本は全国的にGWのど真ん中。大ちゃんのように2週間休暇を取ってスリランカで瞑想のヒトもいれば、自分のように、カレンダー通りに、仕事と休みを重ねているヒトもいる。古代のローマ人や、日本だって江戸時代の奉公人なんかは、基本的に休みが無かった。たまに行く焼き鳥やの大将も、「休みなんかねーや」と言っていたが、最近はどうなんだろう。ユダヤ人が安息日として日曜を休んだのは、点呼のためだったという説があるが、真偽は知らない。ただ、ローマ人に嫌われたという事は知っている。宗教は「習慣」を強いる事で、邪宗との差別化を図るのだ。ところで、城山の書の主人公は、定年したわけでは無い。高度成長期、海外勤務から京都支店に左遷され、閑職や、それまで省みなかった家庭を苦悶するという商社マンだ。さて自分、このGW後半「毎日をどう生きるか?」。答えは簡単!ゴルフとテニス、、、そして家の掃除だ。

2008年5月1日木曜日

考えるワタシ - その果ては

「コギト・エルゴ・スム」と書いたデカルトは、「心身2元論」の親と言われる。しかし、その2000年前にソクラテスは既に、人間機械論的な会話を死を前に弟子としている。それはよいとして、近代以前の世界像では、自然とは霊的なものを含むアニミズム的世界だったが、ガリレオ等の探求で自然界は計測可能な科学の世界となり、心的・霊的なものは追いやられ、「心と物」の二つの世界となった。やがて、それは、「心」の世界まで入り込み、心までも科学の対象となり、今は「心の計算機理論」、つまり、身体も心も「機械」であり、「ココロは、あとづけの妄想・錯覚に過ぎない」と言われるにいたった。ニーチェはそこまで洞察したかは知らないが、「神は死に、真理はなく、あるのはニヒリズムだけだ」と悲観したし、フクヤマは「歴史は終った」とも書いた。ここまで考えてくると、世界、人生と言う物は、「ただそこに存在・継続する」というだけのもので、哲学などというものはない。ヒトの根底原理は、「動物的欲望と折り合い(約束事)」であり、それを少しだけ気をきかして言えば、「より良く生きる」と言うしかないのか。

2008年4月28日月曜日

Span of Recognition - NY vs. TKY

日本は、全国的にGWだが、そう書く自分はカレンダー通りだ。昔は軽井沢で過ごすという時期もあったのだが、人出も増えたし、休暇取得自由度も高まった今は、「何もこの時期に」という選択だ。と言う事で、土日は、テニスとゴルフでお茶を濁した。それはそうと、NYに住んでいた頃を思い出すと、なんだかもっと、街が身近に把握できていたが、東京に住むということは、どうも茫洋感がある。選択肢の多さなのか、都市の大きさなのか。という事で、調べてみると、まずマンハッタンは広さが約60K㎡で、人口が161万人。東京23区が、622K㎡で、866万人だ。東京が、広さで約10倍、人口で約5.4倍、だから人口密度は約半分だ。広さだけで見ると、マンハッタンは、丁度世田谷区くらいで、そこに倍の人間が住んでいる勘定だ。だからなのか、NYに住んで居た頃は、季節ごとのイベントとかの季節物が、肌で感じられて、身近な感じがしたのかも知れない。NYの方が人口密度は高いと言うのは、やや意外だが、東京は、住民と言うより、周辺からの流入人口が多いのだろう。