
北方謙三の三国志を読んでいるが、これは昨年読んだ吉川英治の三国志とはかなり違う。キャラクターも、筋立てもそうだが、なんといっても、吉川は主人公が、劉備、関羽、張飛だが、北方は、どういうのだろうか、「三国」それぞれが、「主」のような、もっと言えば、「人物」がそれぞれ、主人公のような建て付けだ。最初の数冊は、それが判らずと惑ったが、わかって(ホントはどうだかしらない)しまえば、そう読める。確かに、三国どころか、戦国混乱時代だから、多くの英雄と志が跋扈し、切磋琢磨したのだろう。そのように読んでいて、山岸俊夫の「信頼の構造」を思い出した。つまり、世の中というものは、どれが正しくて、どれが違うという事ではなく、開放されていて、他者一般とのベンチマークを通して、自分(達)の立ち位置、価値を知る。それがない、「閉鎖系」では、「信頼する」というチカラ自体が退化して、コストも上がり、破局を迎えるというものだ。という事で、武蔵のように、武者修行で放浪し、自分より強いサムライとベンチマークする。それが、人の人生そのものという事か。
0 件のコメント:
コメントを投稿